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トゥンベリィの日本滞在

医官としてオランダ東インド会社に雇われたスウェーデン人の植物学者C. P. トゥンベリィは、1771年12月にアムステルダムを出港した。南アフリカとジャワ島を経由し、日本の長崎に到着したのは1775年(安永4年)8月のことであった。

長崎の海岸と出島. Dutch painting from 1825.

出島への幽閉

鎖国政策がとられていた江戸時代の日本にあって、オランダは交易を認められていた唯一の西洋国家であった。しかし、オランダ人の出入りは長崎の海岸に面した小さな人工島「出島」内に制限されていた。トゥンベリィも出島に幽閉される日々が続いたが、やがて上陸して長崎周辺で植物採集をする機会に恵まれた。

江戸への往復

1776年(安永5年)春、トゥンベリィは将軍 徳川家治に謁見するため、商館長らと共に江戸(現在の東京)に向けて出発した。往復およそ1000kmの道中、トゥンベリィは多くの植物を観察し採集することができた。

1776年11月、トゥンベリィは日本を後にした。ジャワ島とスリランカに滞在した後、オランダのアムステルダムに1778年10月に帰航し、翌年の春にはスウェーデン、ウプサラに戻った。

Aukuba japonica(アオキ). トゥンベリィの『フロラ・ヤポニカ』に収録された図版.

『フロラ・ヤポニカ(日本植物誌)』とその他の出版物

1784年、トゥンベリィは、日本にとって初の植物誌となる『フロラ・ヤポニカ(日本植物誌) Flora Japonica』を出版した。『フロラ・ヤポニカ』には816種に上る植物(菌類・藻類も含む)が収録されており、そのうちの数百種はトゥンベリィによって初めて2名法に従った学名が与えられたものであった。1785年、トゥンベリィは小リンネ(リンネの息子)の後継者として、ウプサラ大学で薬学および自然哲学の教授に就任した。

トゥンベリィが見出した日本産の新種のうちのいくつかは、『フロラ・ヤポニカ』に数ヶ月先だって刊行されたJohann Andreas Murrayの『植物分類学 Systema Vegetabilium』の中で発表された。以後、トゥンベリィは小規模な論文を多数執筆し、その中で日本の植物相に追加すべき種を発表した。

トゥンベリィの死後、『日本植物誌』は伊藤圭介(1803〜1901)によって日本語に翻訳され、1829年に『泰西本草名疏』の書名で出版されている。『泰西本草名疏』によって、リンネ式の分類法が日本の本草学者の間に広く知られるようになった。

ウプサラ大学進化博物館のトゥンベリィ標本室.

収集品

トゥンベリィが収集した植物標本の多くは、現在ではスウェーデン、ウプサラ大学進化博物館の特別室に、他の歴史的標本と共に保管されている。その標本点数は日本産のものを含めて、およそ28000点に上る。

トゥンベリィは、日本での採集品の重複分を、日本滞在中あるいは帰国後、ヨーロッパ各地の研究者たちに宛てて送付した。50点以上の日本産標本が、スウェーデン自然史博物館(ストックホルム)、ルンド大学植物学博物館(スウェーデン・ルンド)、ナチュラリス生物多様性センター(オランダ・ライデン)、ジュネーヴ植物園(スイス)に収蔵されている。その他のヨーロッパのいくつかの植物標本館で、トゥンベリィの日本産標本が見出されている。